道教的な三国志史観から現代を考えてみた

更新日:2015/07/02

2015-07-01 06.40.53久しぶりに三国志モノを読み終えました。安能務著「三国演義」全6巻

これまで読破したのは、吉川英治、北方謙三、陳舜臣(三国志、諸葛孔明、曹の一族)、内田重久(それからの三国志)

それぞれ、一巻ごと読み終わると違う著者のを読むというジグザグな読み方をしていたのですが、

途中で、挫折したのがこの安能務氏の「三国演義」と宮城谷「三国志」。いずれ、宮城谷氏のは、読み終えたいなー。

この安能氏の三国演義の出色なのは、三国志のさまざまなエピソードの解釈を中国に深く根ざす道教の教えから紐解いたという点。背表紙の紹介文にもそんなうたい文句があり、

「どういうことだろう?」

と気になってて、途中2巻で挫折していたのですが、気を取り直してようやっと読み終えることが出来ました。

そして、どこが道教なのか、浅い知識ながらも何となくわかってきたのは、

吉川三国志などで、よく見られる「三顧の礼」「白帝城の誓い」「出師の表」など、

劉備玄徳や諸葛孔明の儒教的な徳や礼を高らかに謳うエピソードを道教的に観るとこういうことなのよ~!

とある種、冷徹にときにたんたんと、その手の美談を好む人には、思わずそれはないのでは~と思わせるような解釈をしています。

簡単に言うと、「いやいや、あれは、実は彼らが相当の役者で、それらしく振舞っているだけのことですよ!」

と説いているのです。

その裏にはやむにやまれぬ時代背景があったから。それを踏まえての政治的な演出でそうしたのだという。

きわめて現実的、政治的な背景があったという解釈で書かれている三国志モノなのです。

なので、最初は、道教というと、老子でいう陰陽五行といった形而上的な教えの部分で何か興味深い観点がえられるのかと期待したのですが、

道教の教えの中では、したたかに生きよ!的なメッセージもあって、

どちらかというと、そういう観点で道教なのだなとある種理解したのでした。

とくに、そのあたり、孔明が死んで以降の三国の行方を丁寧に書いていること。

後書きの部分でその後の中国の五胡16国時代の変遷が語られていることからも読み取ることが出来ました。

3国鼎立して以降、次々と支配者が入れ替わる中で、世の人が何を想い、どう暮らすことになったか?

そこには、きわめて道教的な世界観が広がり、嫌世し、隠遁して暮らす知識人が多数いたことが紹介されていました。

その象徴的な存在として、結局、3国それぞれの最後の皇帝、劉禅、孫晧、曹奐はともに晋国に降伏しても、殺されることなく、地方で安泰に余生を送ったという事実が多くのことを語っています。

「あんなに懸命に戦いそれぞれ国を作ったのに、結局あれは何だったのか?」的な気分にさせられたのです。

そんな文脈で三国時代を読んでみて、今の日本に立ち戻って、現実を見てみると、

戦後の高度成長期、護送船団方式株式会社ニッポンを「漢帝国の時代」とし、

その後のバブル崩壊(黄巾の乱)を経て、グローバル化、IT化の流れの中で、多くの振興IT企業が興った2000年以降を「群雄割拠の時代」とすると、

その後、大企業の多くが合併連衡を繰り返し、寡占化していく今の時代は、ある種「三国時代」に入ってきているといえるかもしれませんね。

そして、そういった寡占化の流れの中で、グローバルビジネスの戦場に疲れた知的ワーカーたちが、アーリーリタイアして隠遁していく時代が訪れるのだろうか。

でも、そこに、これから迎える超高齢化社会や地球温暖化が、待ち受けているわけで。

そうそう、隠れていようたって、そう簡単には行かず、いずれ巻き込まれちゃうだろう。

古の隠者のように、山川草木の中で隠遁して暮らせるほど、流暢な時代ではなく、どんなに田舎にいてもネットでつながってるわけで。

これからは、この時代にフィットした隠者たるタオイスト(知的ワーカー)たちが、地方に暮らしながらITを駆使して世の中に影響を及ぼすような時代になったりしてね。

五胡16国時代、陶淵明や王羲之のような隠者たちが、隠棲のなか後世に文学や書を伝えたのに対して、

現代の隠者たちはネットを駆使して、今の世にどんな影響を及ぼす時代になるのだろうか?

そんなことまで、思いを巡らせた道教で三国志の巻でした。笑


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